裏Go!Go!
揺れる体。流れる景色。ドア上のモニターに流れる占い。
平日午前の電車。三人がけの端に座る私。
向かいの三人がけの端には一人、男の子が座っている。
私より少し若く見えるのかもしれない。
そんな彼はちらちらと私を視界に入れている。
気になるのだろう。
私はさっきから思案顔と無表情の間を作っている。
そうすれば、彼はきっと来る。
電車は相変わらず揺れていたが、しばらくすると止まった。
平日の昼間にはあまり行く人はいなさそうな駅だった。
私たちの車両からは誰も出なかった。
すぐに発車の音楽が流れ、電車は揺れ始めた。
加速し出した時、彼は立ち上がった。
一歩二歩と私に近付いてくる。
目の前に来ると体の向きを変えて隣に座った。
彼は私の眼を見た。拒否の信号は出さなかった。
「落ち込んでるみたいだけど、どうしたの? 僕も最近ついてなくて」
彼は口を開くとそんなことを言った。
知らない人から言われたとしたらほとんどの場合大きなお世話だろう。
それに私の落ち込み顔は作ったものだ。
それすら見抜けないとは、相変わらず騙されやすい人。
ちょっと落ち込んでいる人がいたらやたらと声をかけるのかな、彼は。
いや、違う。私だから声をかけてきたんだ。
「だってさー。バイトは三連不採用になったし、連絡とれなくなる知り合い増えるし彼女にもフられたし十円ガムすら当たらない」
ふふふ。表情は相変わらず落ち込み顔を維持しつつ、心の中で笑ってしまった。
「……あー。ごめんね、いきなり。でもさ、なんかちょっと放っておけない感じがしてね。前にどこかで会ったりしたことないかな」
こんなところも、変わらない。
丁寧に、少しだけ明るくなった風に、これらに気をつけて受け答えた。
「いいえ。いいですよ。ついていないんですね。そちらも。私も何か不思議な縁を感じます」
「じゃあさ、少し話そうよ。ついていない同士、愚痴りあい。In昼」
「いいですね。じゃあ、場所を変えて話しませんか? 今日は予定ないですし。電車じゃあれでしょう?」
窓の外を走る車。少ないながらも聞こえる話し声。流れる歌なし音楽。
ここは喫茶店。あのあと次の駅で降りて適当なところに落ち着いた。
五月の平日、朝と昼の間。
時間によっては混むのかもしれないここも、今は余裕がある。
四人席に向かい合って座った。彼の冴えない服が目に付く。
私がぴっちりとスーツを着ているあたり、周りから見たらなおさら目立っているかもしれない。
私は紅茶、彼にはコーヒーが目の前に置かれている。
静かに一口つけてから、話を切り出した。
「誰にも相談できなかったんです」
彼は気を一層引き締めたようだった。
「最近困っているんです。ついてないとも言えるかもしれません」
僕もなんだよ、とこぼしていたが、先の催促と受け止めた。
「この会社にも色々な仕事があります。でもやらされるのは雑務ばかりで、会社に関わっている実感がなくて。それだけならまだ若手だから仕方ないのかもしれません。でも、待っていたのは上司からのセクハラでした」
それはひどいね、と彼は頷いた。胸が傷むのを感じたが、続けた。
「それにも耐えました。二年も。でも、今度はストーカーが……」
「それまた、ひどいね。誰だかわかるの? 警察には?」
「毎日駅まで近距離でつけてくるので、誰だかはわかりますよ」
そう言いながら、泣き眼を作る。ドラマだったら“抱いて”のサインになりそうな、そういう顔にしているつもり。
「……その上司でした。警察なんていけませんよ。その上司は有名ですし。その後のことを考えると……会社が心配で」
「辞めちゃえ、ってわけにはいかないのかな?」
一言一言で良心が削られていくような気分になってきた。
「この会社は、幼少の頃から憧れていた会社です。そう簡単に諦められませんよ。そこで、相談があるんです」
「なに? 本当に君が困っているなら、僕には少ししかできないかもしれないけど、力になるよ」
この台詞。やっぱり変わらない。
彼と話せていることに喜びを感じつつ、椅子の下にある茶色い革の鞄から本を何冊か取り出した。
「この英会話の教材を買ってほしいんです。一セット」
「なんで?」
当然の疑問が出てくる。いっぱいいっぱいのふりをした。
「これを買ってくれるだけでもだいぶ違うんです」
何かを考えたみたいだが、理解できなかったようだ。まぁ、ある意味当然だろう。
「これは、上司から押し付けられた教材です。気持ち悪くて、処分したいんです。買っていただければ、もう少し頑張れます」
「買わなかったら?」
そんなことを聞いてくる。あぁ、やっぱり優しい。
「あなたは私と似た雰囲気がしてたから助けてくれると思ったけど、それまでってことですね。帰ります」
もっと話したい一緒にいたい。
「待って」
机に手をかけたとき、呼び止められた。
「君ともう少し話がしたいんだけど……ほんとに君がもし、望んでるならいいし、一セット買うよ。その英会話の教材」
うわあああ。かわいいいい。
彼は自分が騙されているという自覚がないのだろうか。
人助けのつもりなんだろう。“助けられている”私のほうが抱きしめたくなる。
本当にごめん。
心の中で謝りつつ、値段を伝えた。満面の笑みを浮かべながら、彼の手に届かないくらいの額を。
「ごめん、今は買えないかも」
心底申し訳なさそうだ。
作らずちょっと困った表情になったかもしれない。
もう一度作り直してから、耳元で囁いた。
緑の並木。赤みがかった空。ATM。
「何回払いでもいいですよ」
そんな台詞に、救われたような様子だった。
悪いことしたな……。
家に戻ってから銀行に行き、私の口座に振り込んでいる彼を見て思う。
喫茶店での話し合いは楽しかった。“商談”以降は。
普通に、以前と変わらない彼と話ができた。
ずっと憧れていた、彼。
私があの“私”だと、最後まで気づいてくれなかった。
それでもいい。そのほうがいいのかもしれない。
一歩近づけた。遠くから見ているだけだった私から、一歩。
これで彼は私のものになるかな。
お友達のアドレス帳から彼を消したり、彼女さんに忠告の手紙を送ったり、バイトの面接を受けた先と話をしてみたりした成果が、いよいよ出始めた。
ここまでは全部計算通り。
なんでも今男性はギャップに愛情を感じるらしい。
ツンデレ……とか。違ったかな。
優しく接して、騙されたと思わせて、もう一度誠意を持って接する。
この差に彼はきっと惚れるに違いない。
あとは、数日後。彼が彼の残りの友人たちと話して、私が詐欺師だと考えたあと、このメールを送ればいい。
下書きに入っている文章を眺めにやにやしてみる。
“この前はすみませんでした。お礼がしたいんです。相談もしたいことがあって。あなたともう少し話がしたいんです。私にできる御礼があるならさせてください”
騙し取ったお金も、その時返そう。
色々と騙してしまって傷んだ良心を、慰めてもらおう。
中学の時、転校して来て浮いていた私にかまってくれた、彼。
整形してお化粧も上手くなって痩せた私を私とわからなかったのも許してあげよう。
それだけ綺麗になって、相応しくなったと思おう。
あのあと彼は引っ越してしまったけど、私は自分の足でこっちまでこれた。住所も調べられた。
成長、したんだから。
ATMを見ると、人はいなくなってた。
「よそ見、しすぎちゃったな」
私は、向かいの歩道の前方を進む彼を、再び追った。
あとがき
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