春の酒



 「打ったー。右中間真っ二つ。二塁ランナー三塁を回った……」
 リビングダイニングの部屋にあるテーブル。目の前のその机のさらに置くにあるテレビから、野球中継の声が聞こえる。今日は2006年の三月の日曜日、昼。センバツ大会も七十八回目になったという。 「桂輔さん。お昼ですよ」
 そう言ってテーブルの上に昼飯を置く。食のことはよくわからないが、体によさそうなものが並んでいる。唯一物足りないのは、酒がないくらいか。
 彼女が食事を全て運び終わり、座ったところで箸をつけはじめる。
「飯、おいしいよ。ありがとう」
 これはお世辞ではない。素直な感想だった。
「あなたが健康で、長生きしてくれることを願っているんです。このくらいのことなら、いつでもしますよ。例の約束も、守っていただけているようですし」
 俺、結城桂輔は、平凡な会社員として、十分幸せな生活をおくっているように見えるだろう。
 実際、幸せなのかもしれない。


 仕事が終わった。大きな区切りだった。
「先輩、今日こそ飲みに行きませんか。みんなでパーっと」
 そう話しかけてきたのは、大学時代からの後輩、中田だった。
「ごめんな。酒はまだだめなんだ。もう少し」
「禁酒中なんでしたっけ。昔はあんなに飲んでいたのに」
「わけがあるんだよ。近々、大丈夫になると思う。少しならな」
「わかりました。僕も、いや僕たちは皆、先輩と飲みたいんですよ。先輩、仕事も完璧ですからね。面倒見もいいですし。だから、いつか行けるという言葉を信じます」
「ありがとう」
「でもやっぱりたまにはいいじゃないですか。ジュースでもいいですから」
 それでも、俺にはわけがあった。だめなんだ。
「ごめんな、中田」
 中田は、少し残念そうな顔をしてから
「わかりました。そこまで言うなら、無理なんでしょう」
 戻っていった。
 さて、帰るか。


 十分、世間的には春な日。俺は公園にいた。春といっても、比較的北のここでは、まだ花見客はいない。夜の闇に見える木々は、ひどく寂しく見えた。
 この木々が白く華々しく咲き誇るとき、それが……。


 休日、俺は学生時代の知り合いに会わないかと誘われた。
 仲の良かった同士での小・同窓会を開くとかなんとかで。
 今は居酒屋に四人で座っている。その中には、中田もいた。

「先輩、今日は来てくれたんですね。どうもです」
「でも飲まないぞ、酒はな。本当はファミレスにしてほしかったんだが」
 主催者である洋平が口を挟む。
「俺らは酒飲み仲間みたいなもんだっただろ。今更なに言ってるんだよ。学校と居酒屋以外で話したことがあったか?」
「たしかに、なかったかもしれない。でも、本当は飲みに行きたくはなかったんだ。飲み屋に行くことが、だめだったんだ」
「単純に禁酒っていうんなら問題ないじゃないですか。体の問題なら」
 今度は隆哉が口を出してきた。
「いや、これが精神的な問題なんだよ。重要なな。俺にとって、一生ものの」
 ビールが三つ運ばれてきた。それの他にオレンジジュースが一つ。
 飲む前から酔っているような雰囲気の洋平は、ちょっと怒った様子で
「お前本当にこんなの飲むのか?つべこべ言わず飲めや。ほれ。一日くらい大丈夫。旧友と感動の再会をしたのに飲まない奴がどこにいる?」
 迫ってきた。中田はもちろんだが、隆哉も、洋平も本当はいい奴だ。だから、わかってくれると信じてここに来た。
 でも、強制するのなら……
「ほれ、ほれほれほ――――うぉっ」
 俺は寄ってくる洋平を、グラスごと吹き飛ばした。
 洋平の全身にはビールがかかった。
 俺は財布を出し、中身を確認せず札を三枚ほど出して、机の上に置いた。これが俺の代金だ。そこまで話の分からない奴なら帰るわ。じゃあな、と。
 財布からは三万円が消えていた。
   好意で薦めているのに断る俺こそが、相手から見たら話のわからない奴なのかもしれない。
 と、一瞬考えたが、すぐ吹っ切った。今は、しかたがないんだ。


「桜、綺麗ですね」
 中田が話しかけてきた。
 センバツも終わり、入学式等が行われている時期。比較的北の地域のここにも桜の開花がおとずれた。
 中田のような言葉を思わずつぶやきたくなるほどに、桜は華麗に映えていた。
 俺は中田と、会社の同僚数人と、彼女を誘ってここに来た。花見ということで。
 本当は洋平たちも誘えたらよかったのだが、今は会える気分ではない。
 「さて、そろそろ飲むか。今日は俺についてきてくれてありがとう。かんぱ――」
 ここで、わざと一呼吸を置いた。改めて言い直す。
 「しかし、その前に宣言したいことがあるんです。できれば皆の前で」
 俺たちの周りは静かになる。俺は、彼女の方向を向く。
「俺は、二年間、約束を守った、つもりだ。好きな酒を、飲むのを止めた。それは君がつけた条件だったから」
 彼女は黙っている。
「俺は二年前プロポーズしたけど、そのときに、結婚を望むなら、覚悟を見せてほしい。健康のためにも、二年間禁酒をして、って。だから、俺は今の今まで飲んでこなかった。飲み屋には一度行ってしまったけど、それはきちんと話してからだったしな」
 中田たちの反応は見えない。俺は彼女だけを見ている。
 「そして、今、13時を回った。これで、二年間経った。これからも、健康に気をつけるために、少量にする。だけど、飲んでいいよな?そして――」
 また一呼吸置いて
 「結婚、してもらえる、かな」
 周りの空気が緊張するのがわかった。彼女は、静かに首を縦に振った。
 「じゃあ、遅れたけど、乾杯。みんな、ありがとう」
 久しぶりに飲むアルコールの味は、体に染みた。でも、飲みすぎないようには気をつけよう。
 もう、俺だけの体じゃないのだから。鏡はないが、きっと変質者のような顔になっていただろう。喜びで。
 と、聞きなれた声が聞こえてきた。同じ言葉を連呼している。
 「結城いいいいいいい」
 人影は二つ。洋平と隆哉だった。叫んでいるのは主に洋平だが。
 中田は俺に近づき小声で「僕が呼んだんです」と囁いた。
 「俺たちに隠し事とはいい度胸じゃねえか。だがな、無理強いしたのは悪かった。この顔を見れていなくて寂しかったんだぞ。お前は、昔からこうだった。一人で抱えてな。だが、酒で俺らに愚痴たれるのから、成長したんだ。これからは相方もいるんだから、迷惑かけないようにな」
 頬に、液体が流れたのを感じた。


あとがき

トップへ