Go!Go!



 ここ最近ちょっとついていなかった。
 宝くじははずれ、バイトは三件連続で不採用。音信不通になる知り合いが増え、彼女とも別れた。当たりつきガムももちろんはずれ。
 前は働いていたけど、今は無職。インタビュアーなどになって華々しくTVに映る、なんていう昔からの妄想を無意味にしてしまう。
 最近の気晴らしに、目的なしに平日午前の電車に乗っていた。
 そんな僕が、今こっそりガッツポーズをしている。一目で惚れた。
 正面に見える彼女。歳は同じくらいだろうか。スーツを着た綺麗な女性だった。それだけで惚れても疑問はわかないくらいに。
 でも、それだけじゃない。その人からは、僕と同じにおいがした。
 なにか困っているような。無気力なような。
 自分が言うのもなんだけど、手を差し伸べたくなる雰囲気がある。
 今日たいした用はないし、周りからはちょっと強引に見えたかもしれないけど、向かい側の席に――彼女の隣に座ったんだ。
 僕が隣を見ると、彼女もまんざらじゃなさそうだ。声をかける。
「落ち込んでるみたいだけど、どうしたの? 僕も最近……」


「場所を変えて話しませんか? 今日は予定ないですし」
 そう言われて来た喫茶店。五月の平日、朝と昼の間。時間によっては混むのかもしれないここも、今は余裕がある。
 四人席に向かい合って座った。机を挟んで正面に彼女がいる。
 電車の中で最初に見たときに感じたものを再び感じていた。
 困っている女性というのは、男心をくすぐられる。
 自分でできることならしたいし、頼りにしてほしい。
「誰にも相談できなかったんです」
 つまり、僕のことを少しは頼りにしてくれるのだろうか。
 彼女はマジメ、嘘〇%に見える顔で話し始めた。
「最近困っているんです。ついてないとも言えるかもしれません」
 僕もなんだよ。そう言って先を促す。
「この会社にも色々な仕事があります。でもやらされるのは雑務ばかりで、会社に関わっている実感がなくて。それだけならまだ若手だから仕方ないのかもしれません。でも、待っていたのは上司からのセクハラでした」
 それはひどいね。
「それにも耐えました。二年も。でも、今度はストーカーが……」
 それまた、ひどいね。誰だかわかるの? 警察には?
「毎日駅まで近距離でつけてくるので、誰だかはわかりますよ」
 気付くと彼女は泣きそうな目をしている。今すぐ抱きしめて、安心させてあげたくなるような、そういう目。
「……その上司でした。警察なんていけませんよ。その上司は有名ですし。その後のことを考えると……会社が心配で」
 辞めちゃえ、ってわけにはいかないのかな?
 若いし、不可能ではないだろう。なんとか、安心させたかった。
「この会社は、幼少の頃から憧れていた会社です。そう簡単に諦められませんよ。そこで、相談があるんです」
「なに? 本当に君が困っているなら、僕には少ししかできないかもしれないけど、力になるよ」
 彼女は、椅子の下にある茶色い革の鞄から本を何冊か取り出した。
「この英会話の教材を買ってほしいんです。一セット」
 なんで? 当然の疑問を口にする。
「これを買ってくれるだけでもだいぶ違うんです」
 理解しようとはしつつ、理解できない。黙って先を促す。
「これは、上司から押し付けられた教材です。気持ち悪くて、処分したいんです。買っていただければ、もう少し頑張れます」
 買わなかったら? つい聞いてしまう。
「あなたは私と似た雰囲気がしてたから助けてくれると思ったけど、それまでってことですね。帰ります」
 待って。本心が口から流れ出た。
「君ともう少し話がしたいんだけど……ほんとに君がもし、望んでるならいいし、一セット買うよ。その英会話の教材」
 彼女は本来持っている笑みで、値段を告げた。その笑みは、僕と似ているなんて思っていたのが失礼の極みに思えてくるような笑顔だった。値段は持っている財布が仮に五つあっても足りない。
 ごめん、今は買えないかも。
 彼女は、ちょっと困った表情になってから耳元で囁いた。
「何回払いでもいいですよ」


 「こちら放送席、放送席、ヒーローインタビューです。今日のヒーローは七回裏に見事逆転満塁ホームランを放った、マイヤーズ選手です。ホームラン、どうでした?」
 隣にいる一際大きな体を持つ外国人。マイヤーズ選手に、インタビュアーの言葉を告げる。
 How about the home run?
「That was a pleasant highest feeling. How an unpleasant presentiment was done it was likely not to be able to taste it with two another degrees.」
「あれは最高に気持ちよい感触だった。もう二度と味わえないんじゃないか、なんて嫌な予感もしたよ」
 マイヤーズ選手が話すのとほぼ同じスピードで日本語に訳す。
 僕はあのあと、凄腕通訳として日本中を駆け巡っている。
 『インタビュアーやアナウンサーになって華々しくTVに映る』とはいかなくても、それに近い形でたまにTVにも出られる。
 充分「夢」だ。妄想なんてのも、実際やろうと思えばやれるんだ。
 無職だった僕が凄腕通訳になれたのも、あの出会いのおかげだ。
 途方にくれていた電車の中で見つけた、似た雰囲気を持つ女性。頼まれて買った英会話の教材。
 その教材を使うとすぐに、英語がすらすら喋れるようになった。
 もともと英語が嫌いでなかったのも多少は影響したかもしれない。
 でも絶対に、あの教材が、特別なものなんだ。
 今、彼女はどこにいるのだろうか。お礼を言いたい。
 今でも、頼ってくれるかな。少しは頼もしくなったはずだけど。
 もし困ってるなら、少しだけでも、僕が力になりたい。


 気付くと、そこは観衆の前などではない。白い天井。自宅。
 やっぱり、妄想は妄想だった。見ていられるのは夢だけ。
 通訳なんてのにはなれるわけがない。
 でも、それでも、彼女を救えたと思えば悪くはなかったと思う。


「謎の壷とか買わされなくてよかったじゃないか」
「悪質なものはもっと悪質なんだよ」
「話滅茶苦茶だよ。もう、金貸さないぞ。何人に借りれば気が済むんだ。これからは引っかかるなよ」
「自分から連絡先教えるとはね……いいカモだよ」
「そもそもさぁ、誰にも相談できなかったの……ってよくあるパターンだぜ。『アンケートお願いします』って言うくらいにな」
「お前は泣きそうな目で苦労話とか、そういうの弱いよな。前の彼女さんだって……」
 あの日の出来事を話した数人の知人の反応。だいたい同じだった。
 それでも信じられない。今でも。彼女が嘘をついていたなんてね。
 だって、彼女、本当に困ってそうだったんだ。
 それにほら、うまくすれば英語も喋れるようになる。英語が喋れて困ることはない。彼女も救われる。問題ないじゃないか。
 彼女が嘘なんて。本当に、何度考えたって信じられない。
 というか、信じたくなかった。あの時の彼女の顔は、本物だった。
 僕だって数十年生きてるんだ。


 時代遅れの流行歌が流れた。僕の携帯電話にメールが来たのだ。
 内容は
「この前はすみませんでした。お礼がしたいんです。相談も……」
 彼女は、僕のことを、少しは頼りにしてるのかな。そうでなければ、メールなんて送らないよな。商売目当てなんてのは嘘だ。
 返事を打つ。
「ほんとに君がもし困ってるなら、少しだけぼくが力になるよ」


あとがき

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